眼福という言葉を使うと

 知的に見せられる(事が多い)……ジャポニカロゴスの主張

 場が引く(事が多い)……私の感覚

2005 09 21 [文化・芸術, 日記・コラム・つぶやき, 映画・テレビ, 経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

ジャポニカロゴスは見ているが

 参考にしない。

 正確には、参考にはするが、通常は参考にしていないように振舞う。

 なぜか。言葉は通用が非常に重要であり、世間での受け取り方に合わせる必要がある。そういう意味では辞書の解説や由来などというのは、単なるヒント以上のものではない。

 もっと言えば、場に合わせて使い分けをするものである。方言が最も顕著な例であるが、他にも専門用語、世代用語など、場によって正しいとされる言葉は違う。数学者と物理学者でさえ、同じ対象に対して異なる言葉を当てはめて、当方の定義を通そうと大喧嘩していたりするものだ、やれやれ。

 それに、従来正しいとされていた用法が押しやられ、従来誤りとされていた用法が大勢を占めたならば、言葉の意味が変化したとして受け止めるべきだろう。それにこういう場合は変化する理由があることも多いと推察できよう。いまさら用法を元に戻そうとする番組の方が、日本語を混乱させていると考えるのは、私だけだろうか。

 「あなたの日本語は大丈夫」というテロップが出ているが、私に言わせれば「番組の姿勢は大丈夫」といったところだ。

2005 09 21 [学問・資格, 教育, 文化・芸術, 日記・コラム・つぶやき, 映画・テレビ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

国際語の資格と仏語

 Yahoo!ニュース - 毎日新聞 - <明大教員>「仏語は国際語失格」石原知事に学習セット贈呈 を受けて。

 コツコツ勉強すればって勉強コストが高いことを認めるのは自爆だと考える。国際語として重要な資格の一つに勉強コストが低いことが挙げられるからだ。人生は短い、一部の人々はともかく、国際人全員が複雑なフランス語を学びきる余裕など無いと思うのだが。

 英語やエスペラント語さえ、地球のあらゆるところで充分通じるようには、かなり程遠いというのに……。フランス語が国際語の地位を保持したければ、国際語に相応しいほどに簡素化する作業が必要だ。でなければ日本語のように地球の一地域言語の地位に甘んじなければならないことになるだろう。

 それはそれとして普通の場合に用いられる進数が10進数なのは、よくよく考えると奇妙なことだ。なぜなら算数を行う場合は12進数の利点が大きいからだ。10進数では3で早くも扱いに苦しまなければならないが、12進数では5まで扱いに苦しむ数が登場しない。それに幾何では3が重要な数として5よりずっと頻繁に登場する。12進数での九九、つまり11×11の表はその大きさにもかかわらず意外と10進数の九九と似た労力くらいで覚えられるだろう。

 ま、現代フランス語には数体系の簡素化を強くお勧めする。

2005 07 27 [文化・芸術] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

ピアノレッスンはレッスンなのか

 教育テレビで放映されたスーパーピアノレッスンを見て、過去の経験も思い出しながら書く。

 あのようなレッスンは受けたことがあるのだが、というよりは一般的なレッスンなのだが、あれはレッスンというよりは表現や解釈の強制だとしか思えない。レッスンならば先ず、学習者自らに由った獲得したい表現や解釈があって、教育者はその援助に徹するべきであろう。

 というか、あれじゃ教師自らが弾いたほうがずっと有意義なんじゃ……。

 でなければ、表現や解釈の学を分離して、演奏とは分けるべきなんだと思う。どうも、ピアノレッスンというものは学習者の利益を真に考えていない、教育者が口出ししたいときに流れをぶった切っているだけ、と断ぜずにはいられないようだ。

 ピアノレッスンは厳しく研究され直されなければならない。

2005 06 04 [教育, 文化・芸術, 日記・コラム・つぶやき, 趣味, 音楽] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

脇明子氏の読む力は生きる力に反論

 4/5(火)にNHK教育の視点論点で放送された、ノートルダム清心女子大学教授・脇明子氏の「読む力は生きる力」に反論する。

 脇明子氏は本に特有の性質として以下の三点を挙げた

  • 想像力
  • 全体視点での論理的思考力
  • 書き言葉レベルの言語力

 しかしこれはどれも文章中心のサイトにも当てはまる特徴である。特に想像力は詩のサイト、全体視点での論理的思考力はまとめサイト、書き言葉レベルでの言語力については小説サイトや論文サイトにてそれぞれ傑出している、本に詩の本、学問の本、主張を述べた本があるのと同じように。

 さらに脇明子氏は、三点から予測力、異なる視点、の二つが得られると述べたが、これらはサイトのみならず、映像やゲームでさえ得られるものである。私は脇明子氏が映像やゲームにおいて予測力や異なる視点を得る力が不足しているだけだと断じざるを得ない。

 ここでは例としてバック・トゥ・ザ・フィーチャーと三国志NETを挙げよう。

 前者は時間を移動するという物語ゆえに生じる因果がとても面白いが、それらを把握するには全体的視点に立ち因果を論理的に把握しなければならない。また行動を決定する際に仮定が頻繁に登場するが、結論を想像しなければならない。ただし書き言葉レベルでの言語力は欠如していることは認めよう。

 後者はネットで遊ぶ三国志である。他のプレイヤーや、その団体である国家に対して様々な書簡を送り、結束、協調、腹の探り合いを行う必要があり、それを適切にこなせなければすぐさま滅亡する。それには想像力、全体視点での論理的思考力、書き言葉レベルの言語力全て必要とされる。

 もちろん映像やゲームに三点が必要とされないものも多いが、それは本でも同じであると脇明子氏自身が告白している。ちなみに脇明子氏が挙げたのは、挿絵が多い絵本とパターンが多用される本である。

 さてここからは、「もし脇明子氏が以上のことを解っていながら放送の通り述べざるを得なかったと仮定する。そうだとしたら理由はどこにあるのだろう」という、少々複雑なテーマを設定して述べてみたいと思う。

 まず考えられるのは、脇明子氏が出版業界の重鎮から頼られた存在であり、頼られた以上は出版業界に寄せられた意見をまとめあげて自分の主張とせざるを得ないが、意見を寄せる者には映像やゲームに無理解な者が多いので放送の通りになってしまった、という仮定である。

 これはそれなりに説得力があるだろう。というのは、映像やゲームは三点を用いなくても嗜めると勘違いしている者が多い、という疑いがあるからだ。実際はそんなことはなく、映像やゲームに対し三点を活用して接する者は多いし、対象から得られる楽しみも何倍になる場合が殆どである。映像やゲームの作り手が、顧客層を広く取る戦略の一環として、三点が欠如している者にも受け入れられるように配慮して作っているからに過ぎない。

 次に考えられるのは、未だ社会の上層には映像やゲームを嗜んだ者が不足していて、脇明子氏が彼らに考慮せざるを得なかった、という仮定である。

 これは少々説得力に疑問がある。というのはゲームはまだいいとしても、映画やテレビは普及してからだいぶ時間が経っているからだ。そして社会の様々な場所において、大量のプレゼンテーションによって企画が提案され、吟味され、あるものは却下され、あるものは採用されている。

 最後に、本が持つ本当の利点を述べておく。

 まずは歴史である。既に膨大な情報が本になっていて、その情報力は絶対に無視することが出来ない。あまりにも膨大なので全てをオンライン化するのは無理であり、それより本そのものを入手したほうが簡便である。

 また歴史を重ねているがゆえに、法や慣習は一通り整備されていることが挙げられる。よって出版では利益を狙う手法が揃っている。まあ狙えるだけであって必ず利益になるということではないが、しかしそのことが、対価を払うだけの情報が本へと集約していく構造を支えていると考えられる。

 次に情報のノイズが小さいことである。本の出版にはコストがかかるが、ネットでは比較的コストを掛けずに情報を流すことができるため、情報のノイズが本より大きい可能性がある。とはいえ本が持つ情報のノイズも決して小さくなく、技術などによってネット上のノイズが低下すれば、差が無くなったり逆転する危険性もあることを、肝に銘じておくべきだろう。

 そして体への負担である。コンピュータがもたらす目や手への負担は読書より大きい、という意見が強いようだ。ところがコンピュータを使って文章を読み上げる研究は進歩を続けており、文字情報に限れば目を休ませながら読書する頻度が上がる可能性がある。

 最後に速度を挙げておきたい。殆どの場合、本のページは手によって物理的にコントロールされるが、それは人間にとって自然で直感的なものであるため、その速度は非常に速い。対してサイトやコンピュータは検索によって絞り込むのは速いのだが、その後が問題である。例えばサイトであればブラウザの操作に熟練しなくてはならないが、それは人工的で抽象的という厄介な代物である。そして時々そのコントロール方法に個性を主張するがゆえに、非常に閲覧しにくいサイトがある。

 それ以外には、さしたる利点を私は知らない。

 脇明子氏には、より精緻な議論を求めたい。本に利点があるのは真実だが、主張する時に誤った根拠を持ち出すのは、本のためにならないのだから。

2005 04 10 [人間講座-NHK教育, 教育, 文化・芸術, 日記・コラム・つぶやき, 映画・テレビ, 書籍・雑誌] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

足をすくわれる、は誤りになりつつある

 Google 検索:足をすくわれる :約 3,560 件、足元をすくわれる :約 7,200 件。

 もし語源原理主義を主張されるなら、平安時代の「おかし」の意味も主張していただかないと、主張に一貫性が無いことに留意されたい。言葉は時代によって変わっていく……。

2005 03 19 [学問・資格, 教育, 文化・芸術, 日記・コラム・つぶやき, 映画・テレビ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

人間講座:マルチに生きる、何だかなぁ

 人間講座:月曜日:人生・愛と美の法則:第4回マルチに生きるで気になったことのメモ。

 (要旨抜粋)父母、祖父母、曾父母……と遡ると、人格者、悪者、良い人、天才、鈍才など、ありとあらゆる人がいて、彼らの血が流れている。だから人はみな条件は等しい。――突然変異、減数分裂、優性劣性、性格遺伝子など、遺伝子の知識があれば、この言はとても空しい。とはいえこの言に惑わされて頑張れる人に限れば有効なので、本論のように反論するのは社会的な支持を得にくい、といったところか。

 (要旨抜粋)天上天下唯我独尊は、「各々私というものは宇宙でただ一つの存在なんですよ」と『自分』の素晴らしさを説く言葉――とっくの昔に「我思う故に我有り」や「自己と非自己は区別できる」に対する反論は存在する。脳科学や宇宙論に触れれば、そのような問いは安易に回答できない、ということを思い知るだろう。とりあえずシュレーディンガーの猫 - Wikipediaアインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス - Wikipediaバナッハ=タルスキーのパラドックス - Wikipediaなどに対する見解くらいつけてほしいものだが。

 (要旨抜粋)あらゆることを知っていれば楽しみのほうが数が多くなるGoogle 検索: "既知観" Google 検索: "予定調和" 観、ラプラスの悪魔 - Wikipedia自由意志 - Wikipediaの決定論参照)にはどう対処するつもりなんだろう。まあ全知なんて正確には不可能だからどうでもいいことだが。

 しかしまあほんと、Google 検索: ブルーハーツ リンダリンダ の歌詞冒頭がよく合う人間講座だなぁ。

2005 03 03 [人間講座-NHK教育, 教育, 文化・芸術, 日記・コラム・つぶやき, 映画・テレビ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

人間講座日本人のこころを歌う雑感

 人間講座:月曜日:人生・愛と美の法則:日本人のこころを歌うを視聴して記す。

 まず、声の過剰ビブラートに車酔いのごとく酔った。またひどく聞き取りにくかった。声の調子が弱いところで重要な子音を放たれるととても困る。健常者向けにも字幕が欲しいことがあるのだと本気で驚いた。

日本人の素晴らしいところは、私は世界各国の色んな音楽とか、そういうものをまあ幅広くやらせて頂いておりますけれども、あの、世界でも稀有な存在というのは、日本人は音に対して物凄く敏感な国民だということだと思うんですね。例えば「峰の嵐か松風か訪ぬる人の琴の音か」松風がサヤサヤ…月がコウコウと…、つまり、その風景を歌うようにしながら実は風景ではなくてその自分の哲学、イデオロギー、信念、そのときの情念、思い、その歴史から色々とまあ伝わってきた色んなその風景とかね、あの、色んなことをその中に多重構造になって秘めている、そしてそれをあからさまに出すんじゃなくて、さり気なく、あの、差し出す、それが日本の文化だと思うんですね。それがあの歌にも現れていると思うんです。

 「つまり」の前は音に対しての記述、「つまり」の後は歌詞についての記述である。接続詞で繋げているにも関わらず、主題が一貫していない。

 叙情手段としての叙景は、日本文化に限ったことではない。むしろ日本は主に中国の漢文を手本としている。四面楚歌はその端的なものだろう。他にも李白の黄鶴樓送孟浩然之廣陵は日本でも絶賛する人が多い。基調講演ー有馬朗人ーの後半も参考になる。

 日本語の美しさ:まあ童謡に美しい日本語が多いのは否定はしませんけど、外国だってロンドン橋、キラキラ星、ジングルベル、かっこうなど親しまれている良質の童謡があるので、なぜ童謡で「日本語の」美しさを強調できるか解りません。

 反抗期に童謡療法:全員には効かないでしょうなぁ、例えば私とか。

 アメリカのならず者文化:アメリカだってドボルザークの新世界よりなどのクラシック文化はあるし、ヨーロッパだってロックが浸透していった。確かに占領下の日本ではハードロックをアメリカ文化として受け入れたことは正しいのだろうが、アメリカ文化がハードロックだという主張は成立しない。新しい音源であるノイズを多用するロックは成熟文化に対する挑戦そのものであり、それが流行した背景には、世界中の若年層の一部が既存文化に激怒していた事実がある。まあ美輪明宏さんが好んだ文化は若者の一部から強く嫌われていたということでしょうな。

 キレ易いのは音の力:昔のほうがキレる人は多かったし、喧騒も今昔問わずあるところにはある。喧騒のほうが子守唄になる場合もあるのは、国会議員や地下鉄車内を見れば納得できるだろう。

 flowerより花のほうがふわっとした:いや私はflowerのほうが好みだな、ただ発音はアメリカ式ではなくイギリス式限定で。

 歌の作り方:コード進行は大丈夫なんだろうか。

 音楽を生活に生かす:幻想的ソナタ(俗称月光)第三楽章とかリストの雪嵐とか好きなのだが、私はどうも日本の童謡や演歌は好きになれないようだ。

2005 02 15 [人間講座-NHK教育, 文化・芸術, 音楽] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

つまり正高信男の主張は

 私は保守派だ

 正高信男氏が約200分(*1)かけて教育テレビで放った主張は、上の一文に集約されると考える。確かに幾許かの事実を引用してはいたが、大量の妄言が混入していた。その妄言を全て取り除くと、どう頑張っても上の一文しか残らない、としか考えられない。

 例を挙げる。大衆がブランドばかりありがたがるという主張をしていた。しかし、それでは近年、酪農、自動車、ゲーム機など、いくつかの巨大ブランドに起こった激しい凋落は説明つかない。またニッチなメーカーがマニアに受けて生き延びている理由も説明がつかない。正高信男氏が社会分析時に「『ブランド志向』というブランド」で分析しているだけではないのか。

 もちろん互いに自分の信じる意見を述べるのは自由だ。そして私は正高信男氏を個人としては尊重している。しかし国民から視聴料を徴収できるNHKで流すには、随分と質の低い言論ではなかろうか。誠に嘆かわしい。

 追記:再放送、再々放送が最初から予定されているので、3倍して600分としてよいことに気付いた。

2005 02 01 [教育, 文化・芸術, 日記・コラム・つぶやき, 映画・テレビ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

正高信男の進化史

 人間講座:火曜日:人間性の進化史 ~サル学で見るヒトの未来文明が文化を滅ぼす、いやはや中高年に多い妄想を巧みに組み合わせて、激烈なトンデモ社会学を言い放っている。再放送、再々放送があるので見逃した方は要チェック。

 本当は噴飯したところを引用して批評しようと思ったんですが、25分丸ごと突っ込みどころだらけだったので、ネットに書く時間が無い。おまけに腹筋が物凄く痛い。スタンダード 反社会学講座を紹介するだけに留めておこう。

2005 01 28 [教育, 文化・芸術, 日記・コラム・つぶやき, 映画・テレビ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

マザーグースおたくが…

 なんで日本の童謡について間違った事を、笑顔でズバズバと、公共電波に乗せて飛ばせるのか理解できません。

 ……マザーグースに心酔するのは構わないが、だからといって間違った事をズバズバ言い放っていいわけないだろ。何なんだいったい。

 ま、たぶん日本の童謡について間違った事を言いまくっているんだから、きっと(以下省略)

2005 01 24 [教育, 文化・芸術, 映画・テレビ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

痛快と噴飯、二つの人生講座

 「騙す心騙される心」は痛快だが、「人間性の進化史」は噴飯ものだ。

 前者は非常に良質な示唆を与えてくれる。騙しという、永遠に解決しない古来からの問題を、取り上げる時代から共通する要素を綺麗に抜き出して、鮮やかに浮かび上がらせている。講師の力量は当に素晴らしく、近年まれに見るほど秀でた教養番組だ。それに詐欺の例は実にシュールなギャグになっていて、視聴者を飽きさせないばかりでなく、とてつもなく痛快である。

 しかし後者は腐っている。時代に自ら縛られるような、十数年以上は前の価値観や倫理を礎にしていて、それを補強するためだけに、各種科学的事実を選んで紹介している。講義に都合の悪い社会考察や事実から目を背けているという印象が拭えない。最近の子供はキレるとし、ITや若者の日本語を印象悪く語り、個人世帯の増加を嘆き、三世代家族を人間らしいという非科学的な理由で賞賛する。そのような論法は多数の穴が既に指摘されており、とっくに賞味期限が切れているというのに。

 どちらの教育テレビ人間講座も大笑いしながら見ているが、笑う理由は全く逆である。対照が実に鮮やかであり、この番組の組は私の印象に深く残るだろう。

2005 01 19 [教育, 文化・芸術, 日記・コラム・つぶやき, 映画・テレビ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

キャラに人権は無い

 キャラクターに関する権利は、現実に存在する人のモデルと見なされた場合を除き、キャラクターを生み出した人のものである、基本的には。

 鼻炎と夫婦仲に悩む さいきゆみ どじ日記2★2005年1月11日 (火)  朝から腹たった戯れ言の紹介より)に爆笑した。キャラクターに人権が有ったら、ゲームなどで対人戦が成立するわけがない。いったいなんだこりゃ。

 まあエログロに関して嫌悪感を抱くのは理解できるし、年齢制限などの規制は必要だが、その根拠を豪快に間違え過ぎ。規制の理由は存在すらしないキャラクターの人権ではなく、犯罪促進などの実社会的影響を懸念してのことである。

 さて、今日も私はゲームでキャラクターの仮想人権を仮想侵害しまくるか。念のために申し添えると、実際に誰かの権利を侵害しているわけではないのであしからず。

2005 01 16 [ゲーム, 文化・芸術, 日記・コラム・つぶやき, 映画・テレビ, 書籍・雑誌, 経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

「芸術は身近なもの」に爆笑

 視点論点で宮田亮平氏が論じた「芸術は身近なもの」に爆笑してしまった。まあ、爆笑した理由は一切書かない。以下は別のことについて書く。

 痛感したのは、「芸術」という言葉は、一字ごとに分解して類推される意味と、実際に指し示す意味がずれている、ということである。前者の立場に経てば、芸術は芸の術であって、芸そのものではない。しかし実際には芸そのものをさす場合が非常に多い。

 個人的には、芸術を芸の術という意味に限って欲しい、なぜならば他に適当な語が無いからである。普通に使う芸術はこれから芸と言えばいいではないか。……なんて私一人が言ったって駄目ですな、たかが約一億二千万の一ですから。やれやれ。

 よく芸術作品は感性で感じるものと言われるが、私の感性は技術や因果への関心が非常に強いため、芸術作品を作るに当たって用いた技術や、そう作品を成さしめた経緯が最も気になる。素直になればなるほど技術が気になるのだ。或いは、一般の鑑賞者が作品に触れたときに生じる感情の因果関係や、その因果関係を活用する技術に関心がある。

 ずばり言ってしまえば芸術作品そのものには感心することはあまりない、それらは既に生まれてしまったものであり、或る意味死んでいるからだ、例え動きがあるものであっても、インタラクティブなものであっても、である。時間軸を含めた作品の周囲の構造に関心の殆どがあり、作品そのものには殆どない。

 ~~ 絵描きというものは、描き終わった絵に興味はない。興味は今描いている絵にある ~~

2005 01 15 [文化・芸術, 日記・コラム・つぶやき, 映画・テレビ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

マスコミ諸君、日本語が乱れてるって言うんだろ

 来年か再来年、「最近の日本語の乱れ如実に現る」という記事が各マスコミのトップで踊る。Yahoo!ニュース - 社会 - 読売新聞 :「国語力」半世紀ぶりに全国調査…敬語使い方などを読んでそう確信した。

 冷静で客観的な人は「最近日本語は乱れた、は定番のネタですなぁ」と現実を認識できているが、記事の大きさに興奮したり、国語教師や言論人などで主観的だったりする人達は、研究結果にあわせてどう盛り上げるか着々と戦略を練っているに違いない。前島密や正岡子規もあの世で驚愕し、こう叫ぶに違いない、ふたばってぇしめぇ、と。…何のギャグか解らない人は、明治文学好きに聞いてみてください。

 と、失礼した。そもそも「殆どの日本人は殆ど同じ言葉を扱える」という思想自体が破綻しているだけだ。国語の国定教科書は何千種類もあり(一学年あたりの平均種類×一年あたりの平均改定回数×国定教科書使用年数×日本人の平均寿命…でだいたい良いのかな)、国語の教師は…何十万人のオーダーだと思う(誤りがあったら指摘をお願いします)、共同体は無数にある。その全てが殆ど同じ言葉を用いるなんて、無理に決まっているだろ。

 だいたい、地域、職場、世代、話題などで大人が日々大量に言葉を生み育て捨てゆく中で、なんで子供や若者だけが非難されなくちゃならんのだ。それを解っているから、私は若者言葉への批判に触れるたび、批判の理不尽さの暴走ぶりに爆笑してしまう。

 もし若者と話が通じないと嘆くのであれば、敬語のシステムとデータをまとめた国定教科書を製作し、社会や国家が、それを若者達に無償で提供すべきだ。それをしないでただ若者を非難するのであれば、社会・国家が負う若者を教育する義務の怠慢を棚に上げているだけだ。即ちこれ国民全員の恥なり。

 日本語は様々な言葉の集合に過ぎない。50代が日本語だと思っているのは50代弁と呼ぶべきかもしれないのだ。同じように40代弁、30代弁、地域でも松戸市小金中学校弁、北海道最北端弁、職場や学問でも代数幾何弁、量子色力学弁、フジテレビトリビアの泉スタッフ弁、六本木ヒルズ弁、様々な言い回しや固有の単語は大量に有る。それを単一にまとめるなんて狂ってるとしか思えない。

 それに第一、人が学べるものの量には限度があるが、それでも人は生きてゆかねばならぬ。交流し、会話し、文通して生きてゆかねばならぬ。その限界の一旦は教科書の量で伺うことが出来るが、だからといって教科書を広辞苑並にすればいいというものではない。人は日本語のみに人生を捧げるわけにはいかないからだ、当たり前だが。個人的には、国語の時間を削って、もっと数学に割り当てて欲しかった。

 まあ私個人の話はともかくとして、異なる共同体に属していた「あなた」と「或る若者」が出会ったとき、全ての言い回しが通じ合うことはない。また条件を緩くして、「あなた」が一般の日本語と信じて「或る若者」に向けて放った言葉も、1.「あなた」の信念が正しいとは限らず、2.一般の日本語が変化しないとは限らず、3.「或る若者」が一般の日本語の全てを経験または学んだとは限らない。

 鳥肌感動が新しく生まれ、全然の修飾が肯定用にも復活し、情けは人のためならずが死にゆく。単に日本語が脱皮しただけだ、そしていずれ鳥肌感動や全然修飾も変わりゆく時が来るのだろう。

 なんて言っても、どうせ一般日本語マニアはギャーギャー騒ぐんだろうなぁ、やーれやれ。……誰かマスコミや評論家の文章を予め予想してネット上に発表し、当てっこしてみませんか。そのくらいしないとこの恒例行事楽しめないんだよね。

2005 01 06 [ニュース, 学問・資格, 教育, 文化・芸術, 日記・コラム・つぶやき, 映画・テレビ, 行政] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

子育て番組に爆笑中

 親ばかり突っ走っていて、肝心の子供はグロッキーになっていたり、親のウザさに激怒して号泣していたり、反応する気力も起きずにまな板の鯉になっていたりしているのに、親は「子供には困ってしまいます」というお決まりのコメント。子供が親に抱く「お前は俺よりずっと人生経験抱負なのに、なぜ空気が読めんのだ」という困惑と窮状のほうが何倍も強い光景を見て、噴飯を堪え切れない。

 子育て番組や指導も所詮ヒント集に過ぎない、と学んでも三秒で忘れる親の何と多いことよ。

2004 12 11 [教育, 文化・芸術, 日記・コラム・つぶやき, 映画・テレビ, 育児] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

まずは湯船にって待て

 テレビ東京系の教えてウルトラ実験隊、馬鹿なことを言うな。

 「まずは湯船につかるべし」とのたまっているが、それだと湯船を汚すだろう。確かに本格的に洗うのは一度湯船に入ってからの方が良いが、更にその前に一度軽く埃などを洗い流してからだろう。馬鹿で迷惑な標語を放つのは止めろ。

 銭湯で喧嘩が起こりそうな予感。

2004 10 19 [教育, 文化・芸術, 日記・コラム・つぶやき, 映画・テレビ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

チンチン弁は生まれるか

 asahi.com : MYTOWN : 東京 :「日本語特区」提案へ、これはチンチン弁誕生となるのだろうか。ちなみにそう呼んだのはGoogle 検索: チンチン電車 世田谷線 による。

 自分の考えを表現できるようにという趣旨は大変素晴らしいが、言語や授業の問題ではなく、学校に表現の練習場を真に取り戻すことが本質なのだ。それなのに少しものを語り始めると、やれ静かにしろと怒鳴るの、喧嘩はいかんと大演説を始めるだの、興味や知識が無いテーマを無理やり押し付けて表現しろだの、かといえば無言で媚びた言論をするように威圧する。

 最も下品なものの一つは、不自然な上品志向である。下品な内容を上品に取り繕うものほど醜いものはありませんわ、下賎な平民は嫌ですわねぇ、おほほほほ。……大変失礼した。もし下品な表現が必要ならば、それは自ずと使われて然り、教員が上から言葉の品位を押しつけるものではない。どんな美しい日本語だろうと、むしろそれだからこそ、極端に醜く使えることはよくよく知っている筈だが。

 第一美しい日本語を習得しても、世の中とのずれが大きければ、単なる方言と化してしまうのだが。「あいつ何でチンチン弁なんか喋っとんの?」「ほら、世田谷出身だから」という会話が生まれなければ良いが……、まあ大丈夫か、今までも「山の手だからお上品なんだよあいつ」というような会話はあったし。

 嗚呼美しい日本語チンチン弁、思い起こすは懐かしき昭和初期の風情なり。西太子堂で信号停止チンチンチン……。

 蛇足:Google 検索: チンチン弁当

2004 09 04 [文化・芸術] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

ルールで書ける訳無い

 現在放映中である教育テレビのわくわく授業「ルールを決めれば文章が書けるその1」で、私が一番駄目だと思うような指導を紹介している。具体的にどこが駄目か、どうすればいいのかは、眠い頭では上手く説明できないので書くとしても後のことになるが、根本的にこの指導は駄目だ。ビデオに録画させておき、ぐっすり寝てからまた見よう……。

 しかし国語の授業というものは、何でこんなに駄目なものが多いのだろう。漢字・熟語の習得、有名な文章・作家の丸暗記しか役立った気がしない。他の事をしている時間は全て、自分を先生と呼ばせているアホの一人舞台にしか感じない。そう、まるでこの文章のように。

2004 07 22 [文化・芸術] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

鳥肌が立つ感動は正しい

 福島民報ホームページ - 論説 :坂本弘の直言曲言 変な言葉・奇妙な話し方談議に、「鳥肌が立つ」というのは急激な寒さや恐怖でざわざわし、いわば「総毛立つ」ことである。感動した場面にはふさわしくない表現だ。とあるが、私はこの部分に激怒の念を禁じ得ない。

 坂本弘氏に問いたい、汝は恐怖を抱くほど凄まじい感動を知らぬのか、と。確かに安楽椅子を揺らしポテトチップを食みながら子猫の番組を見て可愛さに感動するなら、「鳥肌が立つ」という表現は誤りであろう。しかしである。例えばスケート愛好家が4回転ジャンプに出会ったとき、ピアノ愛好家が完璧なリストの超絶技巧練習曲の生演奏に出会ったとき、サッカー少年が伝説のマラドーナの試合を生で見たときでも、鳥肌が立つ奴など居ないと言うのか。

 存在は許されぬ筈なのにと思えるほどの芸術、技や奇蹟に出会ったとき、感動の中に恐怖すら覚えるのは決して特異なことではない。坂本弘氏にそれがないとしたら、坂本弘氏の感動はなんと俗なものなのだろうか。

 ああ神よ!我に鳥肌が立つ感動を与えよ!しからずんば死を!

 蛇足:すいません、最後の一文でトランスしてしまいました。見なかったことにしてください。

2004 06 27 [文化・芸術] | 固定リンク | コメント (6) | トラックバック

蜀と四神獣で小考

 四神獣との関係はあるのだろうか、つまり 劉備玄徳 → 玄武 (→ 北 ← 阿斗) ほう統士元 → 鳳雛 → 鳳凰 → 朱雀 諸葛亮孔明 → 臥龍 → 青龍 五虎将軍 → 五虎 → 白虎 と関連付けてよいものなのだろうか。或いはこの話は専門家の間では有名なものなのだろうか。逆に単なるこじつけや偶然なのだろうか。うーむ…

2004 05 12 [文化・芸術] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック